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堂々川(嚢々川)の歴史物語

Ⅰ.堂々川の紹介

 水野勝成が神辺(備後国)に入府した1619年以降、福山は大きく変貌を遂げたのであります。1630年代、水野勝成、勝俊親子の新田開発.旱魃対策で、備後深津、安那、品治、蘆品、沼隈郡等には福山三大大池(1637年瀬戸池、1643年春日池、1645年服部の大池)が築造され、同時期各地の丘陵・山地等にため池が大量に作られ、福山藩4代で5万石も増え経済は豊かになっていきます。
 中条東山地区周辺から水を集めた大原池(1640年代後半築造)は延宝元年5月14日、寅の刻、梅雨の長雨と台風豪雨で堤が切れて、清流の百瀬川は周囲の山を削り、流れた土石流が国分寺を呑み込み、当時の人口から考えられないほどの63名という犠牲者を出した大災害が起こりました。
 江戸時代、下御領村人口、1711年に82軒、505人、1809年に135軒、512人(福山志料より)が住むと記載記録があることから、現在の下御領下組及び本湯野の堂々川両岸では200人前後の庶民や僧籍の人が住んでいたと推測され、これほどの死者が出たことはいかに大きな土砂災害であったか、これだけでも砂留を造る理由がわかります。
 それ以後、神辺宿の発展や大火事、福山藩の塩田政策により、生活用品・住居や炭の需要が増したことから山の木が伐採され、この地域の川は雨毎に砂が流れ出す川になり、下流の人たちは砂と戦わないと農作物が収穫できない地になっています。
 堂々川は全長約4㎞の内、下流1.5㎞が天井川と言われています。(天井川とは川底が周囲の家の1階天井付近と同じ高さからついた名前)、1670年代後半には地元民は「土砂留」等を作りはじめ、福山藩も砂留を作ることを考えました。福山藩4代藩主の水野勝種の頃計画は進みかけましたが資金不足で1730年頃迄、現存記録範囲では作るのが延びたようです。最上流は昭和45年2月福山カントリークラブの名前のゴルフ場が作られ景色は一変しましたが、東山・大倉地区の一部からの水を集め、その池を源に1級河川芦田川の支流高屋川(別名神辺川;西中条村誌)へそそぐ渓流です。最上流は大倉地区で一部堂々川水系と清水川水系が交差するといいます。
 1673(延宝元)年の大惨事※は今も悲しみを忘れないように、国分寺88ケ所1番札所脇に供養塔が建てられています。
 この時、流失した国分寺は中興の祖「快範上人」の勧進、水野勝種藩主が大旦那となり1694(元禄7)年より流出前の場所から北寄りの山側、約300mの場所に順次再建立されて現在に至っています。国分寺の多くの記録は焼失、流出していますが快範上人の記録は国分寺に保管されています。

※江戸時代1673年5月最上流の大原池(標高約155m)が決壊し、中流域の備後国分寺(標高17m)迄土石流が押し寄せ63人の命が失われました。これを契機に福山藩が砂留の築造を始めたようです。
国分寺の南大門跡、南に江戸時代近世山陽道=西国街道(九州往還)石州銀山道(笠岡道)、奈良時代は都から太宰府までの幹線道路古代山陽道が通っていた要衝地です。又、下流域東側は御領遺跡と繋がっています。

Ⅱ.堂々川の砂留について

 1700(元禄13)年元禄検地が実施され、「備後国安那郡下御領村御検地水帳」に記録があります。

トウトウ砂畑
三間・一間半 (面積5歩)国分寺所有
二間半・一間半(面積4歩)四朗兵衛所有
三間半・二間 (面積七歩)七左兵衛所有
 この記録からすると1700年より以前には砂留があったことが推測され、最古レベルの砂留が存在した根拠になります。この場所は現在の4、5番砂留西方の狸原付近と思います。
 堂々川近郊には江戸時代に作られた砂留が16基あり、その内、今は砂留機能を失っているものが本流の1番、淀ケ池東、西、へヘリ峠、大原池池尻の5基があって、これらは石積が現存しています。
 砂留や砂防堰堤は江戸時代以降も大量に築造されており、堂々川流域では45基を超えています。その中で明治13年頃築造の迫山砂留(1番砂留の前の石畳)の下方には御領と湯野に平等に水を分ける石もあり、昔の人の知恵に驚きました。
 また、江戸時代1800年代福山藩、藩主阿部正弘(幕府筆頭老中)の政策、堂々川は石州銀山街道、笠岡道(奈良時代、都から太宰府までの厩往還1部兼)西国街道(福山道・九州往還;千田入口で分岐)、国分寺参道が交差する交通の要衝であり、1845年筆頭老中になると、すでに多く作られている近辺の砂留を含めて、老中地元の堂々川の通行止めが起きると老中のメンツもある事から砂留を作りました。国分寺南大門跡南にあった道標は現在国分寺東50mに位置する下御領八幡神社境内に移転設置されています。1番砂留下方には明治34年渓流砂防指定地記載の柱が立っています。その西、山裾には山からの砂が流れないよう石崖が築かれており、この石崖は堂々川両岸や御領山・中条山麓に何kmにも渡って作られていました。
 1927(昭和2)年当時の内務省の助成金35,500円を使い約1300間に笠岡沖の北木島から割石を13,000個、井笠鉄道で運び両岸の堤防が増強されています。今の堤防の高さの基本はこの時作られ、その後川に堆積した砂を土手に引き上げ、積みあげられた様です。
 昭和初め堂々川流域には水車小屋が3軒ありました。大原池から東へ向かう清水川には6軒もあったと聞きました。国分寺の仁王門脇の臼石はそこのものもあると推測しています。
 昭和30年中頃から1番砂留が作った川原に老人健康施設百働会が建設されることになり、40年頃自衛隊が来訪、手伝いの写真が神辺歴史民俗資料館にはあります。
 この施設には温泉(冷泉=湯野)が出ていたといわれていますが枯渇したらしく、今川の西側山に塩ビパイプが残って当時を予想することができます。又井戸は2番砂留付近の川原にもありますが何に使われていたのでしょうか。冷泉の源泉は長老塚池北から流れ出る谷の側面らしいのですが現在林道ができており、調査をすることはできません。
 1番砂留の両袖は砂で作られていて今はありません。また川の流れは現在の西側10mぐらいと、川原が教えてくれます。
 堂々川が流れる谷から、東の山中にため池が約10池あったそうですがほとんどの堤防が決壊しており、現存は無いに等しく名前だけが残っています。如何に土砂の流出が多く、池が埋まったか、また異常気象や台風などの集中豪雨が多かったかがわかります。記録として明治末期から大正初期の堂々川5番砂留東の山が新規に植林されている写真が残っています。

Ⅲ.堂々川・清水川水系の砂留の大きさ

    高さ 長さ 築造年代 備考
迫山砂留6.8m36.5m明治13年頃 
1番砂留約8.0m9.6m1680年代国登録有形文化財
2番砂留3.9m25.8m1850年頃国登録有形文化財
3番砂留5.5m36.2m1832年国登録有形文化財
4番砂留3.3m31.5m1850年頃国登録有形文化財
5番砂留8.8m3.4m1835年頃国登録有形文化財
6番砂留13.3m55.8m1700年以前国登録有形文化財
鳶ケ迫砂留10.7m39.3m1732年池国登録有形文化財
内広砂留3.8m6.2m1850年頃国登録有形文化財
獅子渡砂留1.9m9.3m1850年頃淀ケ池内
ヘヘリ峠砂留2.1m6.0m1850年頃淀ケ池内
淀ケ池東砂留2.6m9.3m1850年頃淀ケ池内
淀ケ池西砂留1.8m?破損1部現存1850年頃淀ケ池内
侍ガ谷砂留5m13.4m江戸中期?大原池内
中山砂留2.5m12m江戸中期?大原池内
駒ケ爪砂留4.5m12m天保年間?大原池内
池尻砂留2.7m11.2m江戸中期大原池内
迫谷砂留  江戸終期・明治初期?1番砂留脇
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