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堂々川の砂留

砂留(砂防堰堤)の機能

 堂々川には江戸時代に築造された石積の砂留と呼ばれているものが12+4(大原池内)=16基あります。昭和、平成時代に作られたコンクリートのものも30基程度はあります。
 これらの砂留の機能はどんなものがあるか考えてみました。

①上流から流れ出る土砂を溜めます(堂々川では砂留が大きな川原を作っています)
砂留は、上流から流れてくる土砂を下流に流出するのを抑制するとともに、砂留背面に土砂を溜め、川床の勾配をゆるくし、出水時に流出する土石流などの勢いを弱めます。

②急流を緩るやかな流れに変えます。
砂留に砂が堆積して高さができると堰堤上部から水は落ちて滝になります。砂留の下の川は次の砂留迄の高低差が減り、急流が無くなります。

③水の流れる速さを弱めます。
砂留に土砂が堆積することで流速が遅くなり、川底の低下や渓岸の浸食が抑制されます。

砂留強度

 砂留の造り・構造から陥没等はよく起こっており修理も大変です。砂の堆積は一雨ごとに起こります。よって数十年単位で嵩上げがされているようです。百瀬川の頃岩盤の上を水が流れ100の瀬があったと言われており、その岩盤の上に砂留が築かれているので基礎がしっかりしているから、江戸期のものが現存しているともいわれています。

村堺

 明治になり土地は福山藩から庶民の地になり、各地で村の堺が争われました。堂々川流域でも西中条村と下御領村が堂々川西の山頂をめぐり裁判になり、明治8年から訴訟、26年4月に結審しています。途中合併があり、中条村が勝訴、御領村が敗訴し、堂々川の流れの中心が堺になりました。6番砂留西脇に昭和53年頃「潼々谷餘滴」の碑がたちました。この碑は裁判記録の「題」であり、記載の詩は西中条村誌の著者の金尾直樹氏の記述されたものであると思えます。これ以外、近くには大倉池跡(決壊して現在は田圃)がありますが旧池の北側の道路脇に東中条村と上御領村の境石碑、サンサンホーム東側の山の頂上に上御領村と東中条村、ゴルフ場3番グリーン南に東中条、西中条村の堺石、古墳の丘の西の山の頂上、狐岩の東に下御領・上御領の境石があります。焼却場へ行く道の脇には大きな石に「堺」と彫られ、看板もあります。

国の登録有形文化財

 堂々川には江戸時代に作られた16の砂留があり、そのうち下流の6基と右岸2基の砂留が2006年国の登録有形文化財になりました。

迫山砂留と1番砂留

 多くの人が江戸時代築造の1番砂留と勘違いしている迫山砂留は8年前までは名前のない砂留でしたが1885(明治18)年に書かれた湯野村誌によれば迫谷に砂留があった記述から、会では迫山砂留と呼び始め、今ではその名前が定着しました。又、日本最古とも思える1番砂留は左右堰堤が砂で作られていましたので砂が流出して現在は中央部石積だけが残っています。1番砂留が造った川原には老人・温泉施設が出来ましたが昭和と共に消えました。その川原に会は福山市提供の桜やモミジを記念樹として植えています。
砂留

1番砂留

 住民住居の一番近い場所にある砂留、記録が残っていないのが残念ですが、地上から数mは土に埋まって、恐らく岩盤の上に築造されています。下段右下の石積がいつの年代築造か不明です。藩が造ったものか、その前に住民が造った物なのか今の時代に水が洗い出した不思議、専門家の調査を待っています。
砂留

2番砂留

 1番と2番砂留の間にあるコンクリートの砂防堰堤と2番砂留。上流では岩盤が露出しており、急傾斜で流れは速く岩盤に甌穴が見えます。
 すぐ下流には1番砂留川原があり、そこからの写真も残っているので1965年には完成していたと思えます。平成30年7月豪雨で水は堰堤を超えたようです。
砂留

3番砂留

 1832(天宝3)年に着工された砂留で5.46m、堤長36.2mの堰堤です。
 1996(平成8)年に発掘調査が行われ、下層部は岩盤迄到達していました。この砂留も他のものと同様に明治期には嵩上げが行われています。明治時代滋賀県にオランダ技術者が持ち込んだ技術はこの時期の福山藩ではあたりまえの技術であったと思われます。
砂留

4番砂留

 堂々川でホタルを飛ばす最初の行動としてビオトープを作ったのが4番砂留の川原でした。このビオトープを作った時の記録を堂々川ホタル同好会に最初に入会してくれた3家族6人の小学生たちがとっていました。その記録をまとめ申請書に書いて提出したら環境大臣賞を受賞しました。このことから小学生が30人ほど入会してくれました。
 江戸時代後期築造の砂留も年月が経つと壊れてきます。砂留左岸が陥没していました。
砂留

5番砂留

 1915(大正4)年堂々川5番砂留は水を溜め、東のはげ山が植林されました。100年以上経過した現在、山は緑が生い茂り、250mの遊歩道が森林組合によって作られました。又1977(昭和52)年の砂留はほとんどが埋まったように見えますが雑木が繁茂しています。平成になって広島県が整備し、その後堂々川ホタル同好会の活動拠点の一つで貴重な生き物が住み、ホタルや彼岸花が特によく見える観光地に変わっています。
砂留

6番砂留

 1976(昭和51)年から整備された親水公園(堂々公園)、それ以前にはタバコの吸い殻のポイ捨てで数度の山火事があったことを記憶しています。堤長55.8m、堤高13.3mは堂々川最大、5番砂留川原から上を見上げたら壮大さがわかります。石積を見上げると少なくても4度以上嵩上げ(砂が堆積し、追加で石積みを造る)したことが積み方で分かります。基礎部は江戸時代(安永年代以前には完成しており)古墳の石らしいものも見られます。この基礎部も砂留最古候補です。
 1882(明治15)年10月発刊の西中条村誌から引用すると「今ヲ距ル145年前、元文三(*1738)年迄ハ12の砂留アリシ星移リ…」と記載がありますので、この年までに堂々川を含めた中条地区に12の砂留が出来ていたことが分かります。
 堂々川では1番、6番、鳶ケ迫と推定できます。砂留は砂を止める機能から1間から1間半の高さ(当時の基本長さ)の石積みは、西日本豪雨の経験でも2日ほどで30cmも砂が堆積したので早けれ10年以内で嵩上げが必要です。当時藩の資金も少なく住民が砂ざらえをおこなって延命を図ったと思います。
 堂々川右岸の狸原に田んぼがあった記録があります。1700(元禄13)年下御領御検地地水帳写し本の第2条に「とうとう砂畑3間、1間半・・」の記載があり、この畑はすぐに砂に埋もれたとあります。(*作者記入)

6番砂留
6番砂留
6番砂留
6番砂留
6番砂留
6番砂留
6番砂留
6番砂留
6番砂留
6番砂留
6番砂留
6番砂留

鳶ケ迫砂留

 享保17(1732)年灌漑用の池として築造されたようですが、砂の流出により埋もれて決壊、再度築くも同じようにすぐ埋もれています。
 この場所の北側は花崗岩の切り出し場跡がありました。花崗岩は熱・水に弱く、露出すると風化が進み、真砂土になります。その真砂土が土石流を誘発します。この谷の砂留下にある6つは平成11年に築かれたているコンクリート製のものです。ロケーションは堂々川NO.1の場所です。
砂留

内広砂留

 高さ3.8m、長さ6.2m。江戸時代中期築造 昭和に入りかさ上げされ、堂々公園トイレの北西側にあります。
 この2つの谷は特に砂の流出が多いので、堂々川の支流でも早くから築造された。
砂留

(ドウ)(ドウ)(ダニ)()(テキ) (6番砂留西の村堺石)

 堂々川6番砂留の西側に立つ村境石は1977(昭和52)年頃堂々公園が完成したとき造られました。「堂々谷余滴」は1893(明治26)年10月に結審しましたドウドウ谷山林訴訟裁決記録書です。この碑には西中条村誌作者の歌が刻印されています。「安那の海は彌砂の海になりにけり川とは見えず埋まる砂留」は作者と思われる金尾直樹氏の奥ゆかし心が読みとれますが!現実はすでに亡くなっている御領のA氏がぼやいていましたように、中条銀行や淑徳女学校の設立をしたスケールの大きな一族の人物ゆえ、御領は鳶ケ迫谷、淀ケ池の半分を西中条のものされてしまい、それを舌なめずりして見るしかなかったといいます。御領の人も証拠として当時としては珍しい3次元堂々谷地図を作製して抵抗しています。この碑だけ見てもその当時の史実が見えてきます。当時の女学校は広島県には2校のみ、校主は金尾廉太郎氏で直樹氏は養子として井原から金尾家に入られた人です。
砂留
砂留

堂々公園

 昭和51年広島県により親水公園として建設され、その後福山市が管理しています。カラス岩(菅茶山師作の筆のすさび及び福山志料)が6番砂留北の岩盤にあったと推測しますが江戸時代後半にはすでに見つからなかったと両書に記載してあります。
砂留

神辺町の砂留に豪雨

 世紀に一度あるかないかの大水害が2018年7月に広島県や岡山県を襲いました。今から約350年前、備後は今回と同じような大豪雨が災害をもたらしているようです。その時から比べて、河川改修は大幅にできています。もし今回と同じレベルの豪雨であったら、当時どんな姿になっていたか想像することはできません。
 一級河川芦田川の支川高屋川が氾濫し、床下、床上浸水が多く発生し、低地では道路の通行もままならない状態でした。だが山間部には150基以上の砂留が築造されていたため、山崩れは沢山ありましが大きな土石流の被害はなかったと聞いています。池の決壊が起こり避難指示のエリアメールは個人携帯に入ってきました。
 その砂留のありがたさを下流に住む人たちは知って欲しい、山を大切にして欲しいと堂々川ホタル同好会、深水自然を守る会や各所の水利組合、御領の各生産森林組合の面々が整備や保全を行っています。くどいようですがこの活動が地域を守ったことを知ってほしい気持ちに拍車をかけています。よって、当初の計画より内容も多少変わってきました。
 参考までに2018年7月7日の堂々川砂留を超える水量を見てもらいます。
 堂々川ホタル同好会が発足し、15年目を迎えていますが初めての経験で5番砂留川原のパレットが2番砂留下方迄流されている事実もありました。

豪雨
豪雨
豪雨
豪雨
豪雨
豪雨

堂々川の砂留の危機

 十五年前、地域貢献をするために会を立ち上げ、多くの人のご協力で想像以上の成果を出すことができましたが、後ろを見るとほとんどのメンバーの髪が白くなったのに気が付きました。堂々川をはじめとして広島県の砂留は花崗岩質の山に多くあります。
 2018年7月、西日本豪雨災害が発生しました。7月7日11時現在の各砂留の水の流れは凄まじいものでした。

危機
危機
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